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京都教区センター教会
説教要旨綴
 100〜109回

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第90〜99回 作成中
第100〜110回 最新版から順次掲載




第110回 2026年3月15日 受難第4主日礼拝





『今日はこれぐらいにしておいてやる』   
This should be enough for you, today


 「歳は、いくつじゃ」。腰元の由紀さおりが、うやうやしく答える。「十八にございます」。激昂した志村けんが刀の束に手をかける。大年増の腰元が年齢を偽る。この女優もバカ殿に勝るとも劣らずの白塗り。由紀さおりが年齢をいつわるコントである。一番にウケているのが、当の本人というところが面白い。コンプライアンス的に多々問題があった時代の娯楽番組である。真白にメイクしたコメディアンの顔、その真逆は顔を黒く塗った白人が演じるミンストレルショウではあるが、白塗りであろうと黒塗りであろうとショウの演出効果は、ドカーンと爆発する。
 
六日の後、ペトロ、ヤコブ、ヨハネは、大爆発に巻き込まれる。
  
イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き
この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。

 『ペトロが口をはさんでイエスに言った』と続くので、畏れ多くもイエス様が何かをしゃべっておられるところにペトロが割り込んだようである。バラエティーショウの段取りを狂わせたのである。芸人の世界なら収録の後、こってり油を搾られたことだろう。
このペトロの『出過ぎ』は、伝統や立派な教義に光輝く純白性への警告を喚起する。自分たちこそが唯一無比の『真っ白』である。イエス、モーセ、エリヤの祠(ほこら)によってそれを権威付けなければならない。イエス様のお話しの途中であっても、それを遮ってでも、誰よりも一番乗りのお墨付きをもらわねばならない。もらい損ねると、薄汚れの着た切り雀に転落してしまう。

イエスは言う。ペトロよ。お前は、この程度の白さに狼狽(うろた)えるのか。無理もない。お前には、それが限界だ。この事(変容)は、天の国に招かれる神の子のサンプルに過ぎない。実際は、もっと、もっと、今のお前では想像もつかない白の極みがあるのだよ。お前の勘違いと出過ぎに、よくよく向き合ってみることだな。しかし、そうは言っても、愛するペトロよ、そういうお前を嫌いじゃない。

I love you! 今日は、これぐらいにしておいてやるゼ。






第109回 2026年2月15日 待降節第8主日礼拝

『わが心平安なれども玄界灘今日も浪高し』

My peaceful mind is on the high waves of Gnkai -nada


♪まいに〜ち なんぎなことばかりぃ〜  泣き疲れ ねむるぅだけぇ〜♪
「センセ、この歌、練習して歌いたいんですけど」。「あ、これかいな。紅白歌合戦で若いカップルが歌うた曲やな。朝のドラマのテーマソングやんか」。「そやけど、センセ、この歌の楽譜を見たらシャープが5つも付いてますねん」。

人と激しくぶつかり合うことを避けたい世代の人たちの気持ちに寄り添った雰囲気を感じる。タイトルも、『笑ったり転んだり』と、これまた気の抜けたものとなっている。そんな曲を、それも、ウクレレ片手に、八十に手が届こうとする人たちが歌ってみたいと言うのである。シャープが5つ、楽典的に言うと、ロ長調である。楽譜を見ただけで怖気づいたらしい。「これはやね、ハ長調の半音下がりちゅうことやから、楽譜を書き換えてあげます」。「な〜んや。えらい簡単なんですねぇ。センセ、見直したわ」。


この曲は、ヨナ抜き音階、いわゆるドレミ音階の4番目と7番目の音、ファとシを抜いた音階で構成されている。懐かしの童謡なら、ソソソラソソソミドドレミレ(ゆうやけこやけで)がその典型である。歌謡曲の例に至っては枚挙にいとまがない。ヨナ抜き音階は、穏やかな情感を呼び起こす。心の故郷を呼び覚ます。無理がない。
イエスは、「向こう岸へ渡ろう」と弟子たちを促した。向こう岸、彼岸には真の安らぎがある。弟子たちは、湖畔の大群衆、熱気あふれるライブ会場を後にして舟を漕ぎ出した。漕ぎ出して間もなく激しい嵐に襲われた。イエスは平然と居眠りをしている。弟子たちの心が乱れる。イエスに悪態をつく。イエスは波風を??りつける。湖は穏やかになる。無事、一行は向こう岸(彼岸・パラダイス)に到着する。

向こう岸に向かう小さな舟を初期キリスト教会に、激しい波風をローマ帝国の迫害に擬えることに無理はない。弟子たちの動揺とイエスの平静さが際立って対比される。このエピソードは、今を生きるわたしたちに、此岸にしがみ付いる私たちに、『それでいいのか?」を問いかける。♪そんなじゃ、ダメだと思ったりぃ〜♪ ハンバートハンバートのカップルは、難儀な毎日に、ややもすると、だらけそうになる自分たちを、少しばかり叱咤する。

 そんじゃ、ワイも一丁やったろかいな。荒波の玄界灘が待っとるでぇ。任しとき。バタやん、田端義夫の『玄海ブルース』を聴いたってや。オースッ!

           あ ら     し          ふ き   ま  く            げ   ん  か い   こ  え    て




第108回 2026年1月18日 待降節第4主日礼拝

『薬缶( やかん)と純情』   
kettle and pure heart



 「先生、先生、先生!」。先生は、咄嗟(とっさ)に、目の前のヤカンに手を伸ばした。「先生、お茶!」の声よりも、それは早かった。先生とその声の距離は、テーブルひとつあった。それは、だれが見ても失礼の極みであった。ところが、先生は、ひょうひょうと、ヤカンを下げてその声に近づき、湯呑に茶を注いだ。腰に手ぬぐいを下げた下僕のような仕草が、そこにあった。眉を顰(ひそ)める周囲の目に、先生は、腑抜けたような声で言った。「私は、お茶くみですから」。
先生は、この日、教会創立礼拝の説教者として招かれた。すでに引退して娘夫婦と隣町に暮らしているが、アリバイとしての記念行事の出汁にされたのである。五十年の長きにわたりこの教会を牧した。他教会への異動を希望しなかった。それは、この教会の五十年の退屈を意味した。先生は、ただただ腰を低くして牧師館に住み続けた。それが、特別礼拝後の食事会の席でのレスペクトを欠く言葉に繋がったのである。「先生、お茶!」。

わたしは あなたの若いときの真心(純情)を・・・思い起こす (2:2)

先生の説教には過剰なほどに『純情』という言葉が散りばめられた。先生は、その言葉に執着していた。エレミヤ書のこの箇所は、新しい聖書の訳では『真心』となっているが、その前は『純情』であった。その言葉の響きに酔い痴れるかのように、先生は声の調子を上げた。預言者エレミヤが自らの未熟さ、若さを理由に召命を固辞したことを神は強く否定した。

あなたは、若いと言ってはならない (1:7)

 その日の特別礼拝にも『純情』が語られた。心ある信徒が周囲に聞こえる声でつぶやいた。先生、もう、あなたはお茶くみと言ってはならないのではないでしょうかと。退屈な五十年を帳消しにする和やかなリユニオンの時がお開きとなり、先生の娘さんが真っ白なベンツで迎えに来た。娘さんは、低い物腰で教会員に挨拶をした。活動家の議員夫人としてローカル局のテレビで見る顔であった。先生も教会員に、ぺこぺこと別れのお辞儀をして、デイサービスの車に乗るかのように、ひょうひょうと助手席に身を沈めた。






第107回 2025年12月21日 待降節第4主日礼拝


『教会さんの鐘とお寺の鐘』
Church bells and Temple bells


哀歌 3章 10〜18節 (新共同訳)
熊のようにわたしを待ち伏せ
獅子のようにひそみ
逃げ惑うわたしを引き裂いて捨てる
弓に矢をつがえて引き絞り
わたしにねらいを定める
箙(えびら)の矢を次々と放ち 
わたしの腎臓を射抜く

民は皆わたしを嘲笑(あざわら)い
絶え間なく嘲(あざけ)りの歌を浴びせる
わたしを苦悩に飽かせ 苦汁を飲ませられる
砂利をかませてわたしの歯を砕き
塵の中にわたしを打ち倒す
わたしの魂は平和を失い 幸福を忘れた
わたしは言う
わたしの生きる力は絶えた ただ主を待ち望もう



【説教要旨】
 「あなた、ガランガラーンの先生がお見えよ」。「大きな声で。聞こえるがな」。「だって、ガランガラーンだもん」。ガランガラーンとは、どうやら、私のことらしい。天真爛漫を絵に描いたような牧師夫人は、夫の先輩牧師をガランガラーンの先生と呼んでいる。「センセ、失礼しました。センセのお名前をなんぼ言うても覚えてくれませんねん」。
分区の歳末礼拝の当番が回ってきた。高齢会員数名の教会に近隣の教会から沢山の信徒が集まった。ただただ広いだけの礼拝堂が満席になった。説教原稿は手許にあったが、満員御礼の圧に負けて、原稿を懐に仕舞い込んだ。次週の冷え冷えとした礼拝堂の光景が脳裏を過(よぎ)ったからである。ぼそぼそと説教を始めた。
・・・・・みなさん、クリスマスを祝い、新年を迎えようとしております。さて、みなさん、紅白歌合戦が終わると、雪景色のなかに由緒あるお寺の百八つの鐘の音と映像が、ブラウン管に映し出されますね。ブラウン管じゃなく、LEDですがね。さて、みなさん、あのお寺の鐘の音が、何かを言っているように聞こえませんでしょうか。近所のご住職様の受け売りですが、あのゴーンという音は、『御恩』と聞こえるそうです。私には、中学英語で習うゴー、行く(go)の現在・過去・過去完了形、ゴー・ウエント・ゴーンの『ゴーン(gone)』に聞こえますが。ああ、今年も行っちゃうのかと。
 さて、それでは、教会の鐘は何と鳴るでしょうか。教会の鐘は、ご案内のとおり、キンコンカンです。しかし、みなさん、こじつけて耳を澄ますと、キンコンカン、キンコンカン、君、来んかい、君、教会へ来んかいと聞こえませんでしょうか。そうそう、日曜日は教会へ来てみませんかと鳴り響いております。しかし、実際、教会に来てみると、その音は、瞬時に変わります。厳寒の冬空に地鳴りのように低く響きわたる、ヨーロッパのどこかの大聖堂からでも聞こえてきそうな、ガランガラーン。がらがら。そのような悪夢ともいうべき音に変わります。ガランガラーン・・・「センセのお名前をなんぼ言うても覚えてくれませんねん。ガランガラーンの先生やちゅうて」。
 
『わたしの生きる力は絶えた。ただ主を待ち望もう(3:18)』

 

 熊やライオンに引き裂かれるような、弓矢の連射を受けるような、まさに、イエスが言った『激しく奪われる天国』の嘆き苦しみのリアルが、我々にある。教会のドアを叩く人は少ない。ガランガラーンの鐘の音が鳴り響く。哀歌の英語タイトルは『ラメンテーション』であるが、似た語にエレジーがある。恋に窶(やつ)れては、『湯の町エレジー』かも知れないが、信仰の窶れは、ガランガラーンから、その独り子を賜る救いの希望へと、『ガラー』っと・・・。あなたの心掛けが問われている。



第106回 2025年11月16日 降誕前第6主日礼拝

『民と黄金船』
Israelites and Gold Ship


ヘブライ人への手紙11章 23〜27節 (新共同訳)

信仰によって モーセは生まれてから三か月間
両親によって隠されました
その子の美しさを見 王の命令を恐れなかったからです
信仰によって モーセは成人したとき
ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで
はかない罪の楽しみにふけるよりは
神の民と共に虐待される方を選び
キリストのゆえに受けるあざけりを
エジプトの財宝よりまさる富と考えました
与えられる報いに目を向けていたからです
信仰によって
モーセは王の怒りを恐れず エジプトを立ち去りました
目に見えない方を見ているようにして
耐え忍んでいたからです





【説教要旨』
 「そうしてくれんと、な、ワシ、また、無理せんとあかんやろ」。絵図師役の田村高廣が台詞を決める。渡世の垢に塗れた彫り物が、汗ばむダボシャツに薄っすらと透ける。勝新太郎がうなずく。「そうか、朝やん、そうしてくれるか。おおきに、おおきに」。任侠映画に登場する絵図師とは、想像するに、組や親分同士の力関係のデーターを基に、抗争を最小限に収めるエージェントを意味すると思われる。いかにも、いかにもの田村高廣の役どころである。義理が立つ妙案をひねり出し、双方から応分の謝礼を頂く。しくじると命がない。重い負荷に耐える。無理をする。緊張に堪え兼ね、飲んだくれては愛人の家に転がり込み、女王様の鞭に安らぎを求める。(悪名一番1969大映)
恩を仇で返すような民を率いるモーセに気の休まる時はなかった。口下手の人にありがちな癇癪の虫が熾(おこ)る。約束の地を目前にして渇きを訴える民に苛立ち、神が岩に命じよと言ったにもかかわらず、杖で岩を叩いてしまう。幾度と繰り返される神と民の仲介の無理が祟っての迷走であった。しくじったのである。モーセに、カナンの地を踏むことは許されなかった。

『信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです(11:27)』

 ヘブライ人への手紙は、モーセは無理をする人ではあったが、癇癪持ちではなかったと言っている。それはないだろう。岩を叩き、金の子牛に狂乱乱舞する民に激怒し、十戒の石の板を粉々に砕いたのではなかったのか。
ヘブライ人への手紙は、神の民の歴史を知り、ギリシア語の聖書が手許にあったユダヤ教からの改宗者を読み手としている。それ故に、手紙の文章、文体は、洗練されている。あるいは、抑制が効いている。



 イエスの福音は広く伝播していくが、同時に希釈もされた。ユダヤ伝統に立つ信徒たちの『信仰』のフィルターに目詰まりが生じていた。手紙の書き手は、『信仰によって』の前置きをつけて、読み手に、分かる人には分るのヨイショをする。手紙の読み手たちは、モーセと民の関係性を吟味し始める。モーセのイメージをイエスやパウロに重ねていないかと。
BS『がんばる畜産』を観ている。黄金船、ゴールドシップの名を持つ競走馬がいた。この馬と調教師や騎手の関係はモーセと民の真逆である。「お願いして、乗せてもらっているんですよ」。

第107 教区センター教会配信礼拝予告後半のダイジェストをご視聴ください
https://youtu.be/u2bnfRc9IO4



第105回  2025年10月19日 聖霊降臨節第20主日 


『思い出したくもないワタシの過去』 
The shameful past I don't even want to remember


イザヤ書 33章17〜19節 (新共同訳)

あなたの目は 麗しく装った王を仰ぎ
遠く隔たった地を見る

あなたの心は かつての恐怖を思って言う
あのとき 数を調べた者はどこにいるのか
量った者は どこにいるのか
やぐらを数えた者は どこにいるのかと

あの傲慢な民を あなたはもはや見ない
その民の唇は重くて 聞き分けることができず
その舌はもつれて
何を言っているか分からない


【説教要旨】




オレ様がいつもの後ろの席にいなって?
ご心配にゃ及ばないぜ

オレたちゃよ 
今日から 後ろには 座んねぇんだよ

おばちゃんよぉ おばちゃんもよぉ
ずっと 前に来な ずいずいっとな

オレたちゃ 前でも後ろでも
今日からは 好きなところに座るのさ

If you miss me at the back of the bus
And you can't find me nowhere,
Come on up to the front of the bus
I'll be riding up there

 猛禽、猛獣のようなアッシリアに本家イスラエルを蹂躙され、そのアッシリアを圧倒したバビロニアからも蛇の生殺しのような目に遭った分家ユダの人々の悶絶に、不信仰ゆえの因果応報と預言者の責めが追い打ちをかける。池に落ちた犬が棒で叩かれる。泣き面に蜂をあまりの不憫と預言者が『変節』する。糾弾を慰めの言葉へと変える。
 バビロニアを放逐したペルシアのキュロス王がユダの民を解放した。民は世俗の王を救世主と称えた。このボタンのかけ違いがパレスチナの現在に至っていると言えば、言葉が過ぎるだろうか。
 思い出したくもないバス座席の屈辱を、個々の過去に閉じ込めることなく、公民の過去とした闘いに、キュロス王の登場はない。


"If You Miss Me at The Back of the Bus" was a song written by Charles Neblett and recorded by Pete Seeger on his album We Shall Overcome in 1963. Wikipedia

第106 教区センター教会配信礼拝予告後半のダイジェストをご視聴ください
鳥井新平牧師の説経で締め括ります
https://youtu.be/DdEnthLbVug



第104回  2025年9月21日 聖霊降臨節第16主日 

『てめえらの骨は拾ってやるゼ』 
(Y'all bones, I pick up 'em for ya

エゼキエル書 37章1〜3節 (新共同訳)

主の手が わたしの上に臨んだ
わたしは 主の霊によって連れ出され
ある谷の真ん中に降ろされた
そこは 骨でいっぱいであった

主はわたしに その周囲を行き巡らせた
見ると 
谷の上には 非常に多くの骨があり
また見ると それらは 甚だしく枯れていた

そのとき 主は わたしに言われた
人の子よ これらの骨は 生き返ることができるか
わたしは答えた
主なる神よ あなたのみがご存じです


【説教要旨】
「あのう、ボクらもお骨を、、、」。「ついて来たらあかん! お前らは来たらあかん。焼く前にちゃんとお別れさせてやったやないか」。「そやけど、うちのお爺ちゃんやお婆ちゃんの時も、みんなでお骨拾いました」。「みどりちゃんのお骨、なんであかんの」。「見たらあかんのじゃ、お前らは、見たらあかんのや」。
 みどりは、兄に続いて自らの命を絶った。兄の信也は、神学生であった。教授の指導が信也を追い詰めた。兄の亡骸を前に、みどりは涙ひとつ見せることなく、いつもの上擦った口調で、兄の死を他人事のように喋り続け、通夜の席を戸惑わせた。夕食のあと二階へ上がり、しばらくして大きな音がしたとのことであった。物干し台にロープを掛けたのである。告別式の場で突然の指名があった。躊躇なく思うところを語った。火葬の後、信也の骨が全てを語るだろうと。
 みどりが、忽然と姿を消した。捜索が始まった。「キシモトさん、みどりは、どこへ行ったんでしょうね」。「もう、死んでいますよ」。その返答に、尋ねた人の返事はなかった。溜息だけが聞こえた。「そうですね。でも、探しましょう」。「そうだね」。みどりは、故郷へ向かう列車に乗っていた。トンネルの多い単線である。途中、人気のない駅で降りた。日は暮れていた。山道を歩いた。
 みどりの葬儀に、列席者は少なかった。信也の前に、母親も自死している。父親の傍に寄り添った。みどりの幼馴染が数人来ていた。火葬場のラウンジに長い沈黙があった。係員の声がホールに響いた。幼馴染たちを制止した。もう、ここで良いと。本当のこころを語る言葉を知らなかったみどりに、骨になってまで、あの上擦った声で、沈黙の穴埋めをして欲しくなかった。誰にも、その声を聞かせたくなかった。みどりの骨は白く輝いていた。

 「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」 (37:3)」。 
 
エゼキエルは、主なる神から託された厳しい裁きを民に伝えたが、エルサレム神殿の崩壊、捕囚が現実となるや心を翻した。何も言うな。お前たちの骨は拾ってやると。





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