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京都教区センター教会
配信礼拝 説教要旨綴
 100〜109回

第54〜59回 作成中
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第70〜79回 作成中
第80〜89回 作成中
第90〜99回 作成中
第100〜109回 最新版から順次掲載

 


第107回 2025年12月21日 待降節第4主日礼拝


『教会さんの鐘とお寺の鐘』
Church bells and Temple bells



 「あなた、ガランガラーンの先生がお見えよ」。「大きな声で。聞こえるがな」。「だって、ガランガラーンだもん」。ガランガラーンとは、どうやら、私のことらしい。天真爛漫を絵に描いたような牧師夫人は、夫の先輩牧師をガランガラーンの先生と呼んでいる。「センセ、失礼しました。センセのお名前をなんぼ言うても覚えてくれませんねん」。
分区の歳末礼拝の当番が回ってきた。高齢会員数名の教会に近隣の教会から沢山の信徒が集まった。ただただ広いだけの礼拝堂が満席になった。説教原稿は手許にあったが、満員御礼の圧に負けて、原稿を懐に仕舞い込んだ。次週の冷え冷えとした礼拝堂の光景が脳裏を過(よぎ)ったからである。ぼそぼそと説教を始めた。
・・・・・みなさん、クリスマスを祝い、新年を迎えようとしております。さて、みなさん、紅白歌合戦が終わると、雪景色のなかに由緒あるお寺の百八つの鐘の音と映像が、ブラウン管に映し出されますね。ブラウン管じゃなく、LEDですがね。さて、みなさん、あのお寺の鐘の音が、何かを言っているように聞こえませんでしょうか。近所のご住職様の受け売りですが、あのゴーンという音は、『御恩』と聞こえるそうです。私には、中学英語で習うゴー、行く(go)の現在・過去・過去完了形、ゴー・ウエント・ゴーンの『ゴーン(gone)』に聞こえますが。ああ、今年も行っちゃうのかと。
 さて、それでは、教会の鐘は何と鳴るでしょうか。教会の鐘は、ご案内のとおり、キンコンカンです。しかし、みなさん、こじつけて耳を澄ますと、キンコンカン、キンコンカン、君、来んかい、君、教会へ来んかいと聞こえませんでしょうか。そうそう、日曜日は教会へ来てみませんかと鳴り響いております。しかし、実際、教会に来てみると、その音は、瞬時に変わります。厳寒の冬空に地鳴りのように低く響きわたる、ヨーロッパのどこかの大聖堂からでも聞こえてきそうな、ガランガラーン。がらがら。そのような悪夢ともいうべき音に変わります。ガランガラーン・・・「センセのお名前をなんぼ言うても覚えてくれませんねん。ガランガラーンの先生やちゅうて」。
 
『わたしの生きる力は絶えた。ただ主を待ち望もう(3:18)』

 

 熊やライオンに引き裂かれるような、弓矢の連射を受けるような、まさに、イエスが言った『激しく奪われる天国』の嘆き苦しみのリアルが、我々にある。教会のドアを叩く人は少ない。ガランガラーンの鐘の音が鳴り響く。哀歌の英語タイトルは『ラメンテーション』であるが、似た語にエレジーがある。恋に窶(やつ)れては、『湯の町エレジー』かも知れないが、信仰の窶れは、ガランガラーンから、その独り子を賜る救いの希望へと、『ガラー』っと・・・。あなたの心掛けが問われている。



第106回 2025年11月16日 降誕前第6主日礼拝

『民と黄金船』
Israelites and Gold Ship




 「そうしてくれんと、な、ワシ、また、無理せんとあかんやろ」。絵図師役の田村高廣が台詞を決める。渡世の垢に塗れた彫り物が、汗ばむダボシャツに薄っすらと透ける。勝新太郎がうなずく。「そうか、朝やん、そうしてくれるか。おおきに、おおきに」。任侠映画に登場する絵図師とは、想像するに、組や親分同士の力関係のデーターを基に、抗争を最小限に収めるエージェントを意味すると思われる。いかにも、いかにもの田村高廣の役どころである。義理が立つ妙案をひねり出し、双方から応分の謝礼を頂く。しくじると命がない。重い負荷に耐える。無理をする。緊張に堪え兼ね、飲んだくれては愛人の家に転がり込み、女王様の鞭に安らぎを求める。(悪名一番1969大映)
恩を仇で返すような民を率いるモーセに気の休まる時はなかった。口下手の人にありがちな癇癪の虫が熾(おこ)る。約束の地を目前にして渇きを訴える民に苛立ち、神が岩に命じよと言ったにもかかわらず、杖で岩を叩いてしまう。幾度と繰り返される神と民の仲介の無理が祟っての迷走であった。しくじったのである。モーセに、カナンの地を踏むことは許されなかった。

『信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです(11:27)』

 ヘブライ人への手紙は、モーセは無理をする人ではあったが、癇癪持ちではなかったと言っている。それはないだろう。岩を叩き、金の子牛に狂乱乱舞する民に激怒し、十戒の石の板を粉々に砕いたのではなかったのか。
ヘブライ人への手紙は、神の民の歴史を知り、ギリシア語の聖書が手許にあったユダヤ教からの改宗者を読み手としている。それ故に、手紙の文章、文体は、洗練されている。あるいは、抑制が効いている。



 イエスの福音は広く伝播していくが、同時に希釈もされた。ユダヤ伝統に立つ信徒たちの『信仰』のフィルターに目詰まりが生じていた。手紙の書き手は、『信仰によって』の前置きをつけて、読み手に、分かる人には分るのヨイショをする。手紙の読み手たちは、モーセと民の関係性を吟味し始める。モーセのイメージをイエスやパウロに重ねていないかと。
BS『がんばる畜産』を観ている。黄金船、ゴールドシップの名を持つ競走馬がいた。この馬と調教師や騎手の関係はモーセと民の真逆である。「お願いして、乗せてもらっているんですよ」。

第107 教区センター教会配信礼拝予告後半のダイジェストをご視聴ください
https://youtu.be/u2bnfRc9IO4



第105回  2025年10月19日 聖霊降臨節第20主日 


『思い出したくもないワタシの過去』 
The shameful past I don't even want to remember





オレ様がいつもの後ろの席にいなって?
ご心配にゃ及ばないぜ

オレたちゃよ 
今日から 後ろには 座んねぇんだよ

おばちゃんよぉ おばちゃんもよぉ
ずっと 前に来な ずいずいっとな

オレたちゃ 前でも後ろでも
今日からは 好きなところに座るのさ

If you miss me at the back of the bus
And you can't find me nowhere,
Come on up to the front of the bus
I'll be riding up there

 猛禽、猛獣のようなアッシリアに本家イスラエルを蹂躙され、そのアッシリアを圧倒したバビロニアからも蛇の生殺しのような目に遭った分家ユダの人々の悶絶に、不信仰ゆえの因果応報と預言者の責めが追い打ちをかける。池に落ちた犬が棒で叩かれる。泣き面に蜂をあまりの不憫と預言者が『変節』する。糾弾を慰めの言葉へと変える。
 バビロニアを放逐したペルシアのキュロス王がユダの民を解放した。民は世俗の王を救世主と称えた。このボタンのかけ違いがパレスチナの現在に至っていると言えば、言葉が過ぎるだろうか。
 思い出したくもないバス座席の屈辱を、個々の過去に閉じ込めることなく、公民の過去とした闘いに、キュロス王の登場はない。


"If You Miss Me at The Back of the Bus" was a song written by Charles Neblett and recorded by Pete Seeger on his album We Shall Overcome in 1963. Wikipedia

第106 教区センター教会配信礼拝予告後半のダイジェストをご視聴ください
鳥井新平牧師の説経で締め括ります
https://youtu.be/DdEnthLbVug





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